インドネシアの母

突然雨が降ったり、突然風が吹いたりしますが、今日は天気が良い。
5分ほど日光浴をしました(日差しが強くて限界)。

店主の両親は老いてきていますが、ありがたいことに札幌で健在です。
コロナで去年は帰省できず1年半ほど会えていませんが。

もう一人、母がいます。
スラウェシ島マカッサルにいる「インドネシアの母」。
2000年から約2年半、店主のマカッサル時代からのお付き合いです。
最初はイブと呼んでいましたが、途中からママとかマーと呼んでいました。

思い返すと、2000年7月にジャカルタ入りし、ジョグジャで研修。
8月にスラウェシ島マカッサル着。
専門学校の一室に住むことになりましたが、共同キッチンがいまいちだったので食べるのは外食。
といっても、午前中は1講目が終わるとコーヒーブレイク、昼は職員向けの食堂でランチ、なので夜だけ外食。
近所の屋台をあちこち試していき行き着いたのが、夜0時まで営業しているママの食堂でした。
日本風のラーメン!!
食のホームシックに陥っていた店主はその日から毎晩通い始めました。
学校から歩くと10分くらいでしたが、行きはペテペテ(乗り合いバス)、帰りはベチャ(人力自転車)。

会計を担当していたママの末っ子パティと仲良くなり、19:00~23:00頃まで一緒に会計に座り今でいうガールズトークという生活。
たまたま同い年で唯一独身のパティ、イスラムの女性ですが性格はさばさば、本当に話をしていて飽きない心強い親友になってゆきました。
いつも一緒にいたのでパティの姉妹扱い。家族行事祭事も誘ってくれるので、ほぼ参加。ほぼ家族に入っていました。
なので、最初数回はお金を払ってラーメンを食べに行っていましたが、次第に支払いを拒むように。
ママが「あつこからお金を受け取ってはいけない。もう私の娘だよ」と・・・。
自分としては、仲が良いからこそきちんと払って食べたいと思うのですが、インドネシア人的にはそれは駄目なんですね。
そのうち、ラーメンの他に食堂で出していない家のおかずなども出してくれて、食後はブラックコーヒーやお菓子まで出てくるようになって。
2年半、恥ずかしながらタダ飯。

当時すでに年をとって居間でテレビを見ていることが多かったママ。
食堂は若い者たちに任せていました。
パパが食べる時だけは、人に任せずママが準備していましたね。
孫たちがお小遣いをねだると、ブラジャーからお金が出てきます(はさんである)。
よく出入りする野良猫たちは人間を恐れていますが、ママにだけは付いていく・・・。
餌を分け与えていたんだと思います。
誰にでも愛が溢れる人でした。

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21年前に救われたラーメン(ミークア)。今も全く変わらず

マカッサル訛りのインドネシア語でしたが、確かママは東ジャワのマドゥーラ人。
昔、あちらで結婚していて子供が3人ぐらいいたそうですが離婚(子供たちはジャワやカリマンタン)。
事情があったのか、単身マカッサルに来ることになったそうな。
そしてマカッサル人のパパと出会い再婚。
(パパは日本終戦時、孤児でした。民間企業で在マカッサルだった日本人カワサキさんという方に育てられた!)
パパはもう既婚者だったので、ママは第二夫人として結婚。
因みに第一夫人はめちゃめちゃ近所!!子供たちはマカッサルや南東スラウェシのクンダリ在住。
それ以来、パパは第二夫人のママとの生活がメインになっていったようです(60年前の話)。
そして子供が6人で、末っ子はパティ。
しばらく経って、あの近所のお婆さんが、パパの第一夫人と知った時の店主の驚きは大きかったです。
だって昼間は仕込みの手伝いに来てたから・・・第一夫人もママもその子供たちも孫たちもみんな仲が良かったです。
ちょうど店主がマカッサルにいる時、第一夫人のお婆さんを病院で看取ったな。
それから数年して、バパも天に召されました。よく日本の行進曲や軍歌を歌ってくれました。

南スラウェシの村々から、南東スラウェシから、ジャワ島から、カリマンタンから・・・人が大勢集まる食堂兼家でした。
ママや第一夫人の孫や中学生~高校生ぐらいの親戚関係がこの食堂で住み込みで働き、マカッサルの学校に通わせたり。
住む場所、食べ物、働く場所、勉強する機会をあそこで提供していたんですよね。
住んでいる人・出入りする人がいつも多くて、名前を覚えられず店主はメモ帳を持ち歩き。
毎晩、物乞いのおばちゃんが来ると白いご飯をあげていました。

店主がマカッサルを去り、バリ島に戻ってきてからも連絡は取り合っていました。
パティもバリに遊びに来たり、店主も数年に一度仕事合間に泊まらせてもらったり。

そのパティより昨日連絡がありました。
12月23日Tuti(パティのすぐ上の姉)が突然亡くなったと。まだ若いのに。
そして、ママが1月3日に亡くなったと。この日がいつか来るとは予想していたものの理解まで時間がかかりました。
最期の最期まで娘を亡くすという悲しみの中、逝ってしまったママ。
たくさんの人を助けてきたママ、お疲れ様でした。

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これは10年前、マカッサルへ行った時のママ(赤い服がパティ)。
やさしい笑顔で「Sudah makan?(ご飯は済んだ?)」と聞こえてきそう。
最後にママに会ったのは3年前のアンボンへ向かう途中のマカッサルトランジット。
挨拶に寄りたかったので、長めのトランジットのエアチケットにしてかなり強行。
でも、強行で正解でした。
ママには感謝しかありません・・・。
やばい、これはしばらく尾を引きそう。
コロナが落ち着いたら、お墓参りに行こう。

動画をUPしました。水中でカミソリウオは枯れ葉のようです。

その他

Posted by 店主